萌鉄'98 パート9
 「哀愁の下町電車、新潟交通に敬礼」

新潟交通


 蒲原鉄道に別れを告げた後、新潟駅にいた。さて、次は新潟交通に乗るため、越後線で最寄り駅の関屋まで移動する。


JR関屋駅 JR関屋駅は下町の小さな駅で、通りにも面していない入り込んだところにある。関屋駅から細い道を進んで通りに出ると、先に新潟交通の東関屋駅がある。徒歩5分程度。立地的にはこちらが町の中心駅といった感じで、バスターミナルにもなっている。

 

 

 

 

 

路盤 東関屋駅から路線とは反対側には路盤が残っている。これは1992年に廃止された新潟交通の路面電車区間である東関屋〜白山前の廃線跡だ。路盤は川に沿って残るがすぐに尽き、路面へと突入した部分もだいたい目星は着くが、道路部分は完全に跡形もない。ちなみに、東関屋駅そのものの位置も変わっている。

 

 

 

 


東関屋と車両基地 東関屋駅には新潟交通の車両基地があり、グリーン地にイエローの車両が止まっている。中には小田急からやってきた2220型もおり、異形を放っていた。東関屋駅は真新しい建物で、廃止間近だが全くその雰囲気はない。というのも、すでに半分はバスターミナルの待合室として機能しており、バスは駅舎に横付けで発着するので、冬の寒い日に乗客がバス停で凍えて待つ必要はない。さすがは新潟。では、新潟交通に乗ろう。

 

 

 


新潟交通モハ21 新潟交通(にいがたこうつう)。東関屋〜月潟間を走るローカル私鉄。両端の2駅を含め、全ての駅が他の鉄道と全く接続しない完全に孤立した路線。新潟交通の会社そのものは名のとおり(?)バスがメインで、鉄道路線は電鉄線と呼ばれている。東関屋とJRの関屋は歩いて行ける距離にあるが、東関屋〜新潟間には新潟交通のバスが頻繁に運転されているので、ホントはわざわざ歩く必要はない。ホームに待っていたのは新潟交通モハ21形。ちょっと小柄な電車だが、路面電車としてはデカいと思う。休みの日に限って発行される電鉄線フリーきっぷを買っていよいよ乗り込む。乗客はロングシートの座席がだいたい埋まる程度だが、鉄と思われる人がけっこういた。そうこうしているうちに電車が動き出す。グゴゴゴゴ・・ゲコゲコゲコ・・・ガボガボガボ・・・、蒲原鉄道に劣らない轟音と振動でいい感じ(笑)。しかしこの車両は普通の電車よりも路面電車に近いので、なんというか、振動が近い(意味不明)。振動のわりにはあまりスピードは出ていなく、平行する道路を走る車にぶっちぎられながらマイペースで走る。信濃川を渡ると道路から離れ、民家の軒先をかすめるような狭いところを通る。下町の電車でいい感じ。新潟交通の車窓の眺めは「狭い」の一言。とにかく、ほとんど開けたところを通らない。民家をかすめるような狭い所や、後半はほとんど堤防に沿っていたりするので常に視界が遮られている。いや、それが萌えではあるのだが(笑)。


 電車はガボガボいいながらも順調に走り、一部で話題の新駅「ときめき」もただの片面ホームの簡素な駅で乗降客は皆無。皆無だということがわかっているとドアも開こうとせずに発車する(バスみたいな感じ)。そして電車は交換駅の七穂に到着。しかしすぐさま対向の電車が到着して発車。単線鉄道では交換待ちがネック(鉄な人にとっては喜び)になるのだが、あまりにもスムーズであった(ちょっと残念)。

白根駅

 さて、このまま終点まで乗り通すだけではつまらない。どこかで降りよう。ということなら、中間駅で唯一の終日有人駅である白根がいい。

 

 電車は白根駅に到着。相対式ホームの典型的な交換駅であるが、今回は交換は行われない。白髪の駅員さんがチリンチリンと鐘を鳴らすと電車は発車していった。う〜ん、古き良き時代。

 


白根駅の待合室 白根駅の待合室はかなりレトロで、だるまストーブといい壁に貼ってあるポスターといい、数十年前にタイムスリップしたような光景が広がる。とにかく、時間の流れが緩やか、いや、止まっているかのようだ。この光景もあとわずかで無に帰すのか。で、有人駅なので当然切符を売っていて、硬券の入場券を無事GET。

 

 

 

 

白根付近 では外に出る。駅の前はすぐ堤防で、下町の家が密集しているところの片隅に駅があるような感じ。そうこうしているうちに東関屋行きの電車がやって来たので、それを堤防へ上るスロープのような道から写真に収める。

 

 

 

 

 


 白根駅の待合室で時間を止めていると、やがて月潟行きの電車がやってきた。再び乗る。

 白根からはずっと堤防沿いを走る。堤防と道路の間の中段のようなところや、民家の庭に干してある洗濯物をかすめるようなところなど、とにかく狭いところを走る。カーブもきついため、運転席の後ろにへばりついて見ていても先がまったく見通せない。川沿いに走っているが堤防の内側なので水面すら見えない。ここでもやはり下町の裏路地を豪快な音をたてて走る。


月潟駅 電車は終着駅である月潟に到着した。月潟はホーム1面に線路1本の寂しい終着駅だが、1993年までは燕まである路線の中間駅だった。その時代は相対式ホームだったので、反対側には使われなくなったホームがそのまま残っている。線路はホームを通り越したところに車止めがあって途切れている。

 

 

 

 

 

月潟駅の駅舎 月潟駅は委託駅で平日のみ駅員さんがいるが、今日は休日なので無人だった。ここでも硬券の切符を売っているらしいのだが、今日は買えない。駅前には小さな商店街があるのだが「し〜ん」と静まり返っている。ほとんど人がいない。そうこうしているうちに乗っていた電車が折り返していく。それには乗らず、少し廃線跡を歩いてみよう。

 

 

 

 


車止め 22キロポスト月潟から先は、1993年までJR弥彦線の燕まで続いていた。もうその頃から新潟交通の廃止は決められており、序々に路線を短くしていき、ついに全線廃止の時を迎えようとしている。廃線跡は線路や架線柱は撤去されてはいるものの、バラストも残っており、月潟から数百メートルのところに22kmのキロポストも残っていた。この廃線跡のスペースは、あるところは草ボーボーの荒れ放題、またあるところは洗濯物が干してあったりと様々。堤防の一部のような空間なので、ほとんど再利用は不可能と思われる。

 さて、本来ならこのまま燕駅まで廃線跡ウォーキングをしたいところだが、ここから10km以上あることと明るいうちにたどりつけないこと、乗るのは今回が最後になるが、廃線跡ウォーキングは後でも出来るという合理的理論(?)に基づいて断念、月潟駅へ引き返した。


月潟駅の待合室 日曜の夕方の月潟駅は寂しい。鉄な人と思われる人が数人いるだけで、本物の乗客と思われる人はほとんどいない。ひなびた駅舎に弱々と灯る蛍光灯、古き良き時代だ。

 さて、電車がやってきた。これに乗って東関屋へ戻ろう。もう薄暗くなってきており、そろそろ萌鉄の時間も終焉を迎える。電車はまたもや豪快な音をたてながら快走してゆく。ロングシートにまばらに座っている乗客、数駅ごとに数人が入れ替わる程度で乗客にほとんど変動がない。乗降客が皆無で扉を開けない駅も多い。

 そして、ついに東関屋到着。もう二度と乗ることのないだろう電車に別れを告げ、東関屋駅を後にする。


 JR関屋まで歩いて越後線に乗り、新潟駅に戻ってきた。ここからはいよいよ帰路につくのだが、大阪行きの夜行列車、急行「きたぐに」が入線するまで3時間以上ある。でもしかたがないので途方に暮れて待つ。

急行「きたぐに」 そして急行「きたぐに」に乗車。この列車は新潟から信越本線、北陸本線、東海道本線と渡り歩いて大阪まで行く夜行列車。大阪と北陸方面を結ぶ列車は湖西線経由が基本だが、この列車は米原経由という点がポイント高い。車両は583系の寝台機能付き電車。サンライズエクスプレスで寝台電車が脚光を浴びているが、これはその祖先にあたるような車両である。自由席とグリーン車、そして寝台車が連結されている。我々は自由席を陣取る。自由席はボックスシートだが、ベッドが折り込まれていて寝台にも変身するという、近鉄のLCカーも真っ青な大胆な仕様。もちろん、今は自由席として使用されているのでベッドを降ろすことはできません。この列車の走行区間のうち、新潟から柏崎の間はゾーン内になるので、自由席へは乗り放題。しかし、柏崎から米原までは急行券が必要になる。ちなみに急行券は1260円。急行料金は特急料金とは違い、キロ数で均一に定められており、201キロ以上ならどれだけ乗っても1260円という激安ぶり。だから、ここではセオリーどおり(?)「柏崎→米原」の急行券を買ったが、別に新潟からにしようと、「稚内→枕崎」にしようと料金は同じである(発行してもらえるかどうかはわからないが(笑))。

 22時16分、いよいよ急行「きたぐに」発車。乗客は各ボックスに1〜2名で、だいたいのボックスが埋まる程度。自由席で正解だ。夜行列車は都市近郊では終電の代わりに使用されることも多いのだが、「きたぐに」に乗るには急行券が必要なので、終電代わりに使う人は皆無。非常に快適である。

 乗客もまばらで、しかも車両の定員も少ないせいか、かなり静かである。なんというか、夜汽車な雰囲気が漂う。う〜ん、この感覚は久しぶり。ムーンライトながら登場以前の大垣夜行になにもない平日に乗ったときに味わった以来の感覚かもしれない。夜行列車も合理化が進んで廃止されていき、乗客の多い列車はパワーアップして豪華車両や走るホテル化しているが、こうした旅情溢れる夜汽車も残しておいてほしいと思う。

 富山辺りまで来ると、ちらほらと降りてゆく人が見受けられる。金沢、福井とそれが続き、いよいよ我々が降りる米原に到着。時刻は5時20分。以前来たとき、米原駅は大改装中だったが、すっかり工事は終わったよう。名古屋方面の始発まで30分以上あるので新しい駅を探索しよう。

 まず驚いたのが、跨線橋がスパッと切り取られ、近江鉄道へ行けなくなったこと。旧1番線があったあたりは完全に何もなくなり、駅前の駐車スペース&タクシー乗り場になっていた。跡形もなく、ここはホントに米原駅か?と思ってしまったが、その先に孤立している近江鉄道の米原駅は昔のままの佇まいだったので、やっと記憶の中の米原駅との位置が照合完了。それにしても変わったわ。近江鉄道との乗り換えはすこぶる不便になったように思う。彦根で乗り換えろってことか?


 まあ、そんな感じで探索しているうちに始発の時間。ここからは特に何も書くことがないまま名古屋へ・・・、とはいかず(爆)、いっこ手前の枇杷島で降りてしまう。枇杷島は名古屋市内の駅ではないので途中下車の扱いになる。もしこのまま名古屋駅まで行ってしまうと、この「帰り」の切符は回収されてしまうのである。昔は使用済み切符を記念にもらいたいと改札で言えばもらえたのだが、JR東海は今は規則で回収しなければならないそうである。規則ならしかたがない。だが、鉄としては当然、その編目を縫って合法的に手に入れようではないか。だから、枇杷島で途中下車し、ここから普通の切符を買って名古屋を目指せばいいのである(切符は残るし、JRも余分な切符が売れて両者御の字・・・もしかしてそれも狙いなのか?!)。じゃあ、名古屋行きの切符を・・・とはいかず(爆)、カモフラージュ(?)も兼ねて、城北線で勝川までの切符を買う。まぁ、暇だから枇杷島→名古屋を勝川経由で行こうということになったのである(やっぱはじまるのネ)。

 城北線(じょうほくせん)、枇杷島と勝川を結ぶ・・・、これは以前に書いたので省略。

 そして勝川で中央線に乗り換え、名古屋、で米野。約33時間の旅は終わった。

三両編成の急行「かすが」 ・・・が、時刻は8時45分。を、関西線唯一の急行、「かすが」が来る時間だ。すかさず名古屋車両区を跨ぐ向野橋に上り、「かすが」のお通りを眺めていたが、なにいぃぃ、「かすが」が3両編成でやってきた。普段は2両の固定編成なのだが、どうしたんだ?乗客が多くて増結したとも考えられない(失礼)し・・・、結局これは謎のままである(おそらく1両は団体の貸し切りではないかと思うが定かではない)。

 

 

 


 今回の結論。これからの時代、弱小私鉄が生き残る道はないのかもしれない。これで新潟県から私鉄が消える。この規模の私鉄はもうほとんどが消え去り、今後も消える噂がある。もちろん、新規開業などはあるまい。もはや、第三セクター以外の新規鉄道会社の発足はあり得ないのではなかろうか?寂しい世の中になるのう。

 

 萌鉄'99へ続く・・・。


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