004.青春の音楽を語ろう(1999/3/5)
なんか、まじめなのか恥ずかしいのか解らないタイトルですが、ふと考えることがあったので書き綴ってみようと思います。
私は根っからのゲーム少年でして、小学校低学年の頃からゲーセンに入り浸っていた(なにせ現在26歳にして、インベーダー全盛の時代を体験している)くらいで、おこづかいはほぼ100%ゲーム筐体に貯金していました(笑)。
それからは当然のように家庭用のテレビゲームにハマっていくことになります。最初に買ったのは任天堂の「テレビゲーム6」。その次に同じく任天堂の「プロック崩し」。ほんとに単純なゲームでしたが、それでもとことん遊び倒しました。
その後は、忘れもしない、私の人生を狂わせた驚異のゲーム機、「ファミリーコンピュータ」。当時ゲーセンでハマりまくっていたマリオブラザーズが死ぬほど遊べるとあっては買うしかない!ということで、まだまだハード乱立時代にありながら、迷わずファミコンを買ったのは今思えば賢明な判断だったと言えるかも(ウソ、正確にはファミコンを選んだのではなく、マリオブラザーズを選んだだけ(笑))。でも、マリオブラザーズも同時に買ったドンキーコングもゲーセン版と違っていてショックだったこともよく覚えている。それでもとことん遊び倒したけどネ。
で、この頃になるとゲームミュージックが形となって現れ始める。それまでは単なる効果音だったが、ここらへんからちゃんと曲になったものが現れ始めたのだ。私が最初に耳コピしたゲームミュージックは、このファミコン版ドンキーコングのタイトル曲だったと思う。もちろん、そのときはパソコンなんて持っていないから楽譜に書いて、オルガンで弾いていただけだが。そのようにしながら、次第にいろいろなゲームの曲をコピーしていくことになる。だけど、やはり弾くだけでは物足りなく、テープに残すにしてもあまり旨くないし、オルガンだけじゃ不満も残った。
そうこうしているうちに、任天堂から「ファミリーベーシック」が発売される。いろいろとうたい文句はあったければ、私がいちばん注目したのは音楽が作れるところだった。手に入れてからは小学生にしてBASICを勉強し、MML(PLAY文)で曲を打ち込むようになった。なにせ、あのファミコンの音が自分で鳴らせるのだから、これほど面白いことはなく、コピーした曲はもちろん、家にある楽譜を片っ端から打ち込みまくった。よくよく考えれば、このときすでにPSG3声にアレンジして打ち込むテクニックを研究していたことになるのね(苦笑)。
それからはゲーム&打ち込み少年として歳月が流れる。パソコンもファミベからPC−8801(初代)に変わる。
当時好きだったゲームはT&ESOFTの「ハイドライド」シリーズ。しかし、これの第3弾がPC−8801SR以降になり、私の88では遊べなくなってしまったのだ。時を同じくして、NECからあの「サウンドボード2」が発表される。なにせ同時発音数16音という驚異の音源ボード、打ち込み少年としては買わないわけにいかない。そこで、ついにサウンドボード2内蔵のPC−8801FAを買うことになる。今思えば、ここが人生のターニングポイント。ここで狂った人生は完全に軌道修正不可能、あとは闇の世界へとなんのためらいもなく喜んで突き進むオタクばく進モード突入、現在も進行中というオワった状態に・・・、ぢゃなくて、バラ色人生まっしぐら・・・、って、別にどうでもいいや。
で、買ったハイドライド3はメチャ感動で、サウンドボード2バンザーイな状態だった。・・・が、それよりも驚異だったのは奇しくもサウンドボード2に対応していなかった「ソーサリアン」で、ほとんどこの時に私が神と崇める作曲家、古代祐三大先生の曲を耳にしたといってもよい(ホントはドラスレファミリーとかが前にあったけどネ)。ソーサリアンの曲はほんとに強烈で、くわしくは書きませんが、全曲を耳コピしてしまうほどだったと言えばどれほどのものかわかるでしょう。その後、「イース」や「イース2」でも古代祐三大先生の力に驚愕しながらも、それでもこれが地固まったのはやはり「ザ・スキーム」。これで再び人生が変わりました。サウンドボード2はスゴいことはわかっていたのですが、これほどスゴいとは・・・というのに買ってから1年以上たってから気づかされることになった。それからはサウンドボード2での打ち込みを本格的に初め、それが縁で同人界にも足を突っ込み、現在に至るわけなんですが、それは置いておこう(ここまで引っ張って置くのかぃ)。
じゃあ、ゲームミュージック以外の音楽はどうだったのか。実は、幼少のときはアイドル系の曲が好きだった(笑)。とはいえ、私の世代だとおニャンコくらぶとかになるかとおもいがちだが、実はその頃はすでにアイドルに興味がなくなっており、私はその前、キャンディーズやピンクレディーの時代だった(だから、このテの話は5〜6歳上の人と話が合ったりする(笑))。
だが、それはいわゆる音楽に感動していたわけではないので置いといて(またか)、ホントに感動として出会った音楽は、なにげなくついていたラジオから流れていた歌だった。題名も歌手もわからない。だけど、サビの部分の「ラッササーヤンゲー」という謎の英語だけが頭にこびりついて離れなくなった。それからは苦悩の毎日で、なんとかあの曲がなんなのか知りたいけど誰に聞いてもわからず、ワラにもすがるようにラジオを聞きまくる時代がやってくる。もちろんそんなことをしていてもみつかるわけもなく、苦悩な毎日は過ぎてゆく。それからどれだけ経ったことだろう、ある時、意を決してレコード屋の店員に「ラッササーヤンゲーっていう歌、あります?」と聞くに至るまで追い込まれる。あまり有名な曲ではないのか、わからないという返答が続く。3店目だったか4店目だったか忘れたが、そこで聞いた店員が、もしかしてあの曲じゃないかな、と1枚のレコードを持ってきた。今のように視聴が気軽に出来ない時代に、中学生で金がない当時の私が「試しにレコードを買ってみる」などということができるはずもない。それで悩んでいると、店長らしき人が「聞いてみる?」と売り物のレコードを開けて聞かせてくれた。そこに流れてきたのは、まさしく探し求めたあの曲だったのだ。
松任谷由実「スラバヤ通りの妹へ」
これがその曲。ユーミンが1981年に出したアルバム「水の中のASIAへ」の1曲目に収録されている。それからはユーミンにどっぷり浸かっていくことになり、現在も進行中。ユーミンの音楽は、私の人生の音楽となった。
ラジオといえば、ユーミンがパーソナリティをしているFMのサタデーアドベンチャーを聞き始める。当時の私には内容が大人すぎてついていけないところがあったが、とにかく毎週ユーミンの曲がかかるのでカセットテープに録音して聞きまくっていた。ちなみに、サタデーアドベンチャーは土曜から日曜に移って名をサウンドアドベンチャーと改め、現在も放送中。もちろん、毎週聞いている。
それとは別に、高校生の時に「松任谷由実のオールナイトニッポン」が始まる。オールナイトニッポンというとなんだか青春だという感じがする(笑)。ユーミンのは幸い土曜日なので、夜更かしして毎週聞くことになる。
そのユーミンのオールナイトニッポンも、ついに今月(1999年3月)いっぱいで終了することになった。長い長い青春が終わろうとしているのか・・・。
では、青春の音楽とは何か。実は当時、ユーミンのオールナイトニッポンを聞くだけに飽きたらず、その後3時からやっていた「川村かおりのオールナイトニッポン」も聞くようになる。ユーミンを聖母に例えるなら、川村かおりは気のいいお兄さんのようだった(女性なのにお兄さんとは失礼だが)。軽快なトークとボーイッシュな歌に次第に感化されてゆく。特に、よくエンディング近くに流れる曲が白んできた空によく合い、夜更かしして眠い状態にありながらも、その曲を聞きながら空を見るのが好きだった。
川村かおり「Saturday Night」
これがその曲。川村かおりがオールナイトニッポンのリスナーのために作ったという曲。まさしく、イメージピッタリな曲で、この曲のエンディングでギターのカッティングがじゃ〜んと鳴ったあとにポーンと時報が入り、ラジオの電源を落として眠りにつく。今でもこの曲を聞くとその時の思いが甦ってくる。まさしく、青春の音楽。川村かおりが私の青春の音楽といえよう。
・・・その後、川村かおりはレコード会社を移籍し、作風をガラッと変えた。青春が終わったことを実感した。